男らしいセックスの呪縛?
〜『失楽園』に見る男のセクシュアリティー〜


沼崎一郎
 『失楽園』ブームが続いている。新聞連載中から話題になっていたが、映画化
され、テレビドラマ化されて、さらに注目度が高まっているようだ。平成の心中
物という評判だが、男性学の視点から見ると、ちょっと気になることがある。
 それは、男の性と性愛のあり方はこれでいいのかという、セクシュアリティー
の問題である。
 物語の男性主人公、久木は、五十代に入り、会社での出世も頭打ちになって、
リストラの対象になっているという設定だ。娘も既に成人し、父親としての務め
もほぼ終わっている。妻との関係もマンネリ化し、夫としての存在感も希薄だ。
そして、そろそろ「老い」を感じ始めている。
 これは、「男らしさ」の危機である。仕事に生きる男でもなくなった。妻子を
養う男でもなくなった。逞しさ、力強さ、頼りがいといった「男らしさ」を証明
する場所であるはずの会社や家庭に、自分の居所がなくなってしまった。自らの
男性性を証明する場を失ってしまったのである。
 そんな彼が再び見つけた自分の「男らしさ」──それが、年下の、しかし大人
の女性を、性的に目覚めさせ、性的に興奮させられるという、自分の「力」であ
った。会社でも家庭でもなく、自分の肉体の中に、彼は「男らしさ」の存在証明
を見出したのである。
 女性主人公である凛子には、医学部教授で、しかもハンサムな夫がいる。彼女
の夫は、地位でも外見でも久木より上だ。しかし、女を性的に満足させられない
男なのだ。このように設定することで、「男らしさ」は中身が勝負であり、それ
も「女をイカせる」という性的な力こそが肝腎なのだと、男性読者に訴えかけて
いるのである。
 ここに、この小説がヒットした鍵がある。出世できるサラリーマンは限られて
いるし、ハンサムに生まれる男はもっと少ない。しかし、セックスならば、もし
かしたら俺だって、いやきっと俺だって「強い」はずだと男なら誰しも思うの
だ。
 高度成長時代とは違い、リストラの嵐が吹き荒れる現在、社会的上昇には限界
がある。高い地位を目指して闘い続けるという男の生き方は厚い壁にぶつかっ
た。
 また、賃金の上昇も頭打ちになって、妻にパートで助けてもらわなければなら
ない昨今である。フルタイムの共働きなら、給料の差はさらに小さい。「俺の稼
ぎで家族を養っている」というプライドを持てる男たちは少なくなった。
 そして、退職後は「粗大ゴミ」や「濡れ落葉」である。これでは、会社でも家
庭でも「男らしさ」の示しようがない。しかし、セックスならば……。
 もちろん、モテル男は少ないし、不倫のチャンスも多くはない。しかし、セッ
クスだけは、「もしかしたら」という幻想を持てる。「俺も久木になれるかもし
れない」と思えるのである。
 なぜか。それは、性交という行為によって「女をイカせる」力が男性には備わ
っているという神話を、多くの男たちが抱いているからだ。「女をイカせる」こ
となら、自分にもできると思えるのである。
 『失楽園』の結末は、この「挿入至上主義」とでも呼ぶべきセックス観を象徴
している。全裸で、それも交接した姿態で死ぬというエンディングは、自らの男
性的な「威力」を周囲に見せつけて死ぬということに外ならない。セックスとい
う戦場での、名誉の戦死である。しかも、美貌の人妻というトロフィーを抱いて
の最期。これは、男女の愛の証明などではなく、「男らしさ」を誇示するための
男の演出としか思えない。
 セックスとは、本来、最もプライベートなものである。人に見せびらかすもの
ではない。セックスとは、愛し合うもの同士の、体と心のコミュニケーションの
はずである。一方的に「感じさせる」ことではない。お互いに「感じ合う」こと
が、性愛の本質ではないか。
 ところが、「男らしいセックス」とは、ペニスを突き立てることであり、そう
やって「女をイカせる」ことであるという考え方が、男には強過ぎるように思え
てならない。そして、その結果狭い意味での「性交」だけに男はこだわり過ぎる
ように思えて仕方がない。
 力の誇示に囚われ過ぎれば、ペニスを立てて死にたくなる。「男らしさ」の呪
縛から自由になって、優しく感じ合いながら、愛する女性と生きていけるように
なりたいというのが、『失楽園』の読後感である。             
        (ぬまざきいちろう)


活動リストに戻る

メニューに戻る

別姓通信47号